高見神社

高見神社 御由緒

洞海湾(現在の東田地区)と八幡製鐵所の産土神(うぶすなのかみ)として
官営時代からの「ものづくりの精神」を伝える日本近代化産業の守護神として
~八幡製鐵所・関連協力会社や産業に関わる企業の社員や家族を守る安全の神として~
髙見地区の恵み豊かな大自然を守り、荒御霊(あらみたま)を鎮める鎮魂(ちんこん)の神として
高見神社参拝に訪れる多くの人々が祈りを捧げる鎮守(ちんじゅ)の神として
高見神社の御由緒

北九州の近隣はもとより遠方の人々からも親しまれる髙見神社は、 古くは神話の時代に神功皇后さまによってまつられた神社です。神功皇后さまが新羅・百済・高麗に守護軍を派遣した際に、戦勝祈願のため洞海湾の小山、大字尾倉字高見(現 東田)の地に天神(あまつかみ)皇祖神十二柱をおまつりしたのが髙見神社の始まりと伝えられています。

神功皇后さまを山口県豊浦で出迎えた、岡(旧遠賀郡)の縣主(あがたぬし)熊鰐(くまわに)は、船に神籬(ひもろぎ・神様のより所)を設け、三種の神器をまつり、洞海湾へと導き、帆柱山から師船の材料を切り出して船団を整えました。神功皇后さまは、守護軍を派遣されるにあたり、洞海湾髙見山に髙見神社を建立し戦勝を祈願しました。これより、髙見神社は熊鰐の子孫によって代々祀られて来ました。

天正14年(1586年)には、小早川隆景公が豊臣秀吉公の西国統下に伴い祟敬あつく武運を祈願しました。
『髙見大神宮御縁起』や文久2年(1862年)建立の鳥居の額束には「髙見大神宮」と称され、洞海湾を取りまく近郷髙見神社の本宮として遠賀・鞍手両郡の御備米があてられました。社殿の御造営には郡代役所より奉幣(ほうべい・寄付)がなされるようにもなりました。

明治29年(1896年)の官営八幡製鐵所建設により髙見神社も同所用地となったため、明治31年(1898年)に尾倉の豊山八幡神社の宮前に遷され、37年の間同地にまつられました。 この間に、髙見神社の御神威をかしこむ官営八幡製鐵所では、日本国家の近代化産業の守護神としてふさわしい神社を新たに建立する気運が高まりました。

現在の髙見神社は、昭和8年(1933年)の日嗣皇子(今上陛下)御生誕と日本製鐵株式会社創立を慶機として建立されたものです。「髙見神社御造営大事業」は、官営八幡製鐵所と内務省(現在の総務省)共同の国家事業として行われました。四季を通じて美しく、官営八幡製鐵所高等官舎がずらりと並んだ髙見町は、近代国家の都として京都の条里制をならい整備され、その高台に髙見神社が建立されました。

「髙見神社御造営大事業」は、初代渡邊義介所長をはじめとする当時の八幡製鐵所従業員・関係企業の社員・地域は勿論、崇敬あつき人々の御浄財と御奉仕により、十年の歳月を要すものでした。当時、ひとりひとりが気持ちを込めて植えた樹木は、今や広大な大自然に恵まれた美しい髙見の鎮守(ちんじゅ)の杜(もり・御神域)となっています。

内務省神社局の角南隆技師をはじめとする神社建築の名匠たちによる髙見神社の設計は、昭和を代表する総檜木流れ造りの御杜殿となり、大自然との調和による美しさを維持しながら、現在も髙見神社にゆかりある人々の心と歴史を伝えています。

平成になり、髙見地区の再開発事業とともに社宅の町なみは大きく変わりましたが、髙見神社と神社をとりまく鎮守(ちんじゅ)の杜(もり)は、今でも大切に守られています。

昭和24年(1949年)5月18日には、昭和天皇九州御巡幸にあたり福岡県下の旧官幤大社とともに御幤帛を賜った髙見神社の相殿には、天正時代のはじめに東尾倉より遷された若宮社のほか、官営八幡製鐵所ゆかりの地の神社も合祀されています。洞海湾の小島、小丸山の惣御前社は、風浪に洗われたため相殿としてまつられました。高見神社御造営の大石垣に小丸山の石が使用され、神楽殿入口の手水石は当時の鳥居の台石です。 大字大蔵字河内の歳守社は、八幡製鐵所河内貯水池となったため、髙見神社御遷座の際に相殿としてまつられました。

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